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チベットの歴史
〜 神話から17世紀まで〜

 


チベットの位置
まえがき

 現在のチベットは、支那(中国)共産党による圧政が敷かれている。 言論の自由はなく、チベットの民族としての存続さえ危ぶまれている。

 チベットは支那の核実験場となり、樹齢3000年の木々が生い茂る大原生林地帯も、無意味な乱伐によって姿を消した。 殺生する者がいなかったため人を恐れることのなかった無数の鳥や獣は、支那人の食料用に機関銃で乱獲され絶滅してしまった種も多い。

  20世紀前半には数千を数えた僧院大学が、文化大革命の時までに、その8割方が破壊された。 それらの寺院で生活していた60万人を越す僧・僧尼のうち、生き残ったのはたった7000人。しかもその多くは投獄され、死亡した。 現在までに120万人以上のチベット人が中国人に殺された。

かつて、飢饉を体験したことがなく、食料の貯蔵は数十年分もあったという裕福なチベットは、今は昔の姿となっている。  支那は、チベット人の民族的独自性を抹殺することによって、チベット問題に最終的な解決をもたらそうとしている。

一部においては”既に過去のもの”とされてしまったチベット弾圧は、現在進行中で進んでいる事実なのだ。

支那は、ダライ・ラマ法王の交渉要求を頑なに拒否し続けている。 こうしている間にも、支那人のチベットへの大量流入、チベット人の人権侵害、チベットの環境破壊は続いている。 日本は、中国への数億円にも渡るODAをストップさせるなど、中国に対して働きかけできることはたくさんある。だが、それを行わず、マスコミもこの事実をほとんど報道しないのは、共産主義者であるところの親中家が一生懸命だからだ。

親中家は言う−−− 「チベットを近代化し、解放したのだ。」  支那共産党がこのように言い、親中家がそれを繰り返す。 一部のマスコミはもはや、ジャーナリズムを捨て去り、支那共産党の報道する人民報道を繰り返すだけの属国組織と成り下がっている。

 共産主義者は常に”革命が必要”と考え、そのように動く。そして、それまでの文化を破壊しようとする。 チベットの神秘ある文化は、共産主義者にとってみれば”破壊すべき、過去の遺産”なのだ。 我々日本人は今、”過去の大戦における日本の行為”より、”今起こっている弾圧”に対し目を開かなければならない。 私はチベット弾圧の流れを少しでも食い止め、チベットが誇りある一民族、一国家であることを少しでも表現したい。


一方、チベットはオカルトの本拠地と一般にはイメージされているが、チベット人が奇跡を信じていないことを知ったら、こういう人は驚くかもしれない。チベット人は、われわれが驚異とみなす超常現象は、例外的条件の下で自然のエネルギーが作用したものか、そのエネルギーを操る術を心得ている者の手によるものか、さもなければ、その能力のある人が知らずに行っているにすぎない、と考えている。

チベット人はまた、人間に想像できるものはみな実現が可能であると考えている。生き動く物体までも作り出せる、と信じている。

意識ある人々は、奇跡をみるためにチベットへ行ったりはしない。 神々が住まうとされるこの土地は、長い間神秘のベールに包まれていた。 現在のチベットは支那政府による圧制が敷かれているが、それ以前の記録は多々存在し、又、文献も数多くある。

このページは、それらのうち、歴史的・文化的なものと、そのチベット宗教のさわりを、わかりやすく伝えるためにまとめられたものである−−−

 

 

チベット人はどこからきたか

伝説

よく知られている伝説では、チベット人は”猿と羅刹女”、或いは”森の猿と岩の精女”の子孫だとされている。[1][2]

猿と羅刹女とは、仏教でいう魔女のことのようである。”チベット史ものがたり”によると、以下のようにある。

仏教によれば、猿は観音菩薩の化身で静かな祈りと瞑想の生活を送ることに満足していた。一方羅刹女は聖ターラーの化身で、一人さびしく生きていた。羅刹女の悲しい声を聞いた猿は憐れみで胸がいっぱいになり、羅刹女と結婚することにした。2人は6人の子供をもうけたが、この子供たちが全チベット人の祖先だと言われている。[1, p15]

古代チベットの宗教観とは、以下のようなものであったようだ。 日本の神道と同様の、アニミズムである。

世界各地の原始文化と同様に、初期のころのチベットの人たちは木や山、川、谷などすべてに神々が宿っていると考えた。生命の源である水を恵んでくれる川が、大洪水で人命を奪うこともあるように、神々にはありがたい面と恐ろしい面があった。素朴な宗教儀礼がこうした神々とともに育っていった。人々は神々が住んでいると考えた峠や河の渡しに食物を供えたり、香をたいたり、石を積んだりした。[1, p43]

以下は、古代のチベット王国を築いたと言われる神話の物語である。 神話は、その民族のアイデンティティを理解する上でこの上なく重要である。

チベット初期の王たちは、ブータンとの国境に近い南部のヤールン地方に住んでいた。初代王がどこからきたかについては、多くの説話がある。もっとも古い言い伝えによると、その王は神のような人で、縄梯子を使って空から降りてきたという。

けわしい山岳地帯をさまよい歩いているうちにインドからチベットへやってきたこの若者は、そこでヤクに草を食べさせていた牧夫と出会った。素朴な牧夫たちは若者が天から降りてきたにちがいないと思い込み、肩に担いでつれていき、自分達の王にした。この王はニャティ・ツェンポと名づけられた。「肩座王」という意味だ。

ニャティ・ツェンポとその後に続く6代の王は死ぬことがなかった、との伝説もある。ニャティ・ツェンポが最初に降りてきたときの縄梯子を上って、みんな天に帰っていったからだ。ところが第8代のドリグム王は大臣の一人と喧嘩した。大臣は王に恐ろしい魔法をかけ、天国と地上を結ぶ梯子を切ってしまった。これ以後、代々の王は首都ヤールンの近くの墓地に葬られるようになったのである。[1, p20]

このニャティ(ニャトリ)・ツェンポ王によって、紀元前127年、チベットは統一された。 そして、その後の約千年にわたるヤルン王朝の時代に強大な国家を形成するに至った。

 

チベット王朝の歴史

7世紀〜

この後、7世紀の始めに、チベット全土が第32代目の王、ナムリ・ソンツェンによって統一された。 この王朝はとても強力で、中国でさえその強さに震え上がったようだ。 その息子のソンツェン・ガンポも名高い王となった。

昔、チベットの首都はヤールンであったが、このソンツェン・ガンポの時代にラサへ遷都を行い、現在まで続いている。 尚、ラサとはチベット語で「極楽」の意味。

ソンツェン・ガンポとその後継者たちはみな、チベット帝国を拡大し続けた。そして、ラサの石碑には名高い王の戦勝記録も刻まれているようだ。 そして、短期間ではあるが、チベット人は自らの後押しする候補者を唐の新皇帝に擁立するまでに至った。

この時代、チベットはかつてないほどの圧倒的な権威を集め、周辺諸国からも恐れられる、一大帝国であった。

この頃、チベットと唐との立場の”対等さ”を示すものとして、以下の重大な条約が結ばれる。 この条約を結んだのが、ラルパチェン王(815−836)である。 ラルパチェン王は熱心な仏教徒であり、膨大な仏教経典をチベット語に翻訳させたりした。

783年には、チベットと唐の間に和平条約が結ばれた。これによって、両国の国境が定められ、チベットは東部国境地方の大部分に対する支配権も認められた。この条約は、ショル村にあるポタラ宮の下に立てられた石碑に刻まれ、いまでも残っている。821年に両国は再び条約を結んだ。内容は783年の条約とほぼ同じだったが、今度は3つの石碑に条文が刻まれた。唐の宮殿の外、両国の国境、ラサの3ヶ所である。この2つの条約は、明らかに対等な独立国の間で結ばれたもので、この意味で重要である。[1, p34]

だが、その衰退は必然の如く訪れる。 それには、主に2つの原因があるようだ。

1つは、宗教の面。 7世紀以前には、王、貴族、庶民ともにボン教を信仰していた。ボン教は王家と密接な関係にあった。 これに変わり、ソンツェン・ガンポとその後継者は仏教を好み、国教にも採用した。 これにより、従来のボン教信者の反感を買うことにもなり、権威の統一が取れず、帝国の力を弱める原因となった。

もう1つは、帝国の広大さそのものにある。 首都であるラサから何千キロも離れた土地を統治する機構を、チベット人は作り出せなかったのだ。 首都からの目が届かないことをいいことに、将軍たちは好き勝手な振る舞いを繰り返し、チベット帝国の権威を弱めていった。


先に挙げたラルパチェン王が仏教を後押しする一方で、これをよしと思わない一向が、王の兄、ランダルマの元に集まってきていた。 そして、ラルパチェン王は暗殺される。 この王には子供がいなかった為、兄のランダルマ(836−843)が後を継いだ。 そして、その治世の間に仏教を迫害し、中央チベットからほとんど姿を消すまでに至った。 だが、彼自身も暗殺されてしまう。 一説によると、”黒帽子の踊り”はペルギェ・ドルジェによる王暗殺の物語を素材にしているという。

この後、チベットは分裂し、いかなる中央権力も存在しなくなった。 チベット人は帝国全土から引き揚げ、故郷に帰った。 この後、チベットは二度と他国を侵略することはなかった。 ランダルマの死後(843年)、400年の間、チベットは諸侯やラマ(チベット仏教の高僧)が支配する数多くの小国家に分裂した。

 

 

チベット仏教

チベット仏教の源流はもちろん釈迦の教えに到達するが、以下、基礎知識として、チベット仏教の一通りのあらましを記述する。


”チベット仏教”、そして俗称であるところの”ラマ教” について、辞典によると以下のようにある。

チベット仏教
 チベットやモンゴルで信仰されている仏教で、ラマ教ともよばれる。一般的に仏教では三宝(仏・法・僧)に帰依(きえ)するが、チベット仏教では学問上の師であるラマをくわえ四宝に帰依する。7世紀の中ごろ仏教がチベットにつたえられてから、民間信仰との混交をくりかえし独自の発展をとげた民俗宗教である。[3]

ラマ【Bla ma・喇嘛】
チベット仏教の高僧。現在ではチベット仏教僧一般に対する敬称としても用いる。[4]

ラマ教 Lamaism
チベット仏教に対する俗称。インド仏教の正統を継承するものであるが,この俗称のために異端もしくは変容のはなはだしい仏教であるかのように誤解されている。ラマ bla ma は〈師〉を意味する。〈ラ〉は〈生命の根元〉をいう名称。〈マ〉はそれを託された人の意味。密教ではとくに師と弟子の密接な関係を重視するところから,チベット仏教の特徴と誤解され,また,中国でチベット仏教の僧を〈剌麻(喇嘛)〉と呼び慣わしたところから,日本でもこの呼称が一般化した。[5]

20世紀初頭のレポートによると、以下のような点もあるようだ。

外国の作家たちは、ラマ教の僧たちをみな「ラマ」と一様に呼んでいるが、チベットではそんな呼び方はしない。ラマと呼ばれる資格を持つ僧は、大僧院長、大僧学校の長や、高い学位を持つ僧たち、いわゆるトゥルクと呼ばれる高僧たちである。その他の僧侶は、トラパと呼ばれている。もっとも、老いた、知識のある僧に呼びかけるときには、ラマという尊称を使うことはよくある。[6]

又、チベットは基本的に大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の国柄である。 それ故に、8世紀末に中国から禅の教えが伝わり、中国仏教とインド仏教とどちらを取るかの論争が起こった時、中国仏教が大乗仏教の考え方から大きく変質しているとし、インド仏教を正統としたという流れもある。


以下に、インド仏教の区分けを記載したい。

まず、小乗仏教、大乗仏教、密教という3つの大きなカテゴリー。 それぞれ簡単に言えば、小乗仏教は自分を突き詰めることにより悟りを切り開く道。 大乗仏教は他人との繋がり・慈悲の心で悟りを切り開く道。 密教は、”近道”とも言われ、”一代で悟りを切り開く道”です。

そして、これらの違った区分けとして、以下のようなものもある。[7, p209]

「秘密の教え」という意味の「密教」(tantra)と対比させて、小乗仏教と大乗仏教をまとめたものを、「明らかな教え」という意味の「顕教(けんぎょう)」(sutra)という名前で呼ぶこともあります。

 

仏教の教え (ここのところは読み飛ばしてもかまわないです。)

”ダライ・ラマの仏教入門”によると、以下のような、シンプルで本源的な解説がなされている。[7, p16]

仏教修行の主眼は「心の連続体(心相続)」を穏やかにし、非暴力を実践することにあります。一般に仏教では、大乗、小乗の2つの修行の形態があります。大乗の修行では、主に利他の慈悲心を提唱し、小乗の修行では他のものを傷つけない慈悲心をおおむね提唱しています。

あらゆる「仏教の教え」(法:ダルマ)の根本には慈悲があります。仏陀の素晴らしい教えは慈悲に根ざしています。この教えを説いた仏陀(仏)は慈悲から生まれたとさえ言われます。

仏教では、一切のものは「無常」、”変わり続けるもの”とし、物だけではなく、心もまた、変わり続けるものであると考えられている。 仏教による「心」の捉え方は、”この連続的な流れを総称して「心」と名付けている”、とする。  認識に至る為の修行として”瞑想”が挙げられる。

 

瞑想とはなにか (ここのところは読み飛ばしてもかまわないです。)

瞑想の説明として、以下のようなものがある。[6, p280]

チベットの改革者ツォンカパは、瞑想を定義して、「あらゆる想像の念を、その種子ともども一掃する手段」と述べている。

密教の達人たちは、特に2つの行を編み出している。 その最初のものは、止めようとせずに、細心の注意を払って心の動きを監察することである。

弟子は、静かな場所に座り、できるだけ自分の念を一方向に集めないようにする。観念、記憶、欲求等が自然に沸き起こるにまかせ、新しいのと入れ替わりに、それらが心の奥底へとまた沈み込んでゆくのを見る。その間、自分の見ているものについて考えることを避け、想念と心像の流れが交錯し、押し合いへし合いながら消えて行くのを、受け身でみているだけにする。

弟子が、観察者としてそれまで固く保ってきた立場を崩すときに、この修行の成果が得られるといわれている。彼もまた、この混沌たる舞台の上で役者となる。(※) 今の瞑想、行動と思いのすべて、その総合である自分自身は、浮ついたリズムに乗って、集まっては離れ、破裂し、また形成する限りない泡の一つに過ぎない。

もう1つの修行は、一つの対象に心を集中できるよう、心の動きを止めることにある。完全な精神集中を開発する訓練法は、普通、どの生徒にとっても必要とみられている。

心の動きを観照する行法についていえば、これはかなり知的な弟子にのみ勧められることだ。

※ わかり辛いかもしれないが、”気づいたまま、動ける状態”とでも言えばよいだろうか。

ここに、瞑想の本質が見え隠れする。 実際、”何をするか”は瞑想と関係がない。 ”どのような境地に至るか”だけがそこでは問題とされる。 だから、座禅も瞑想でありうるし、登山だって、普段の生活だって、掃除だって瞑想でありうるのだ。 実際、真に悟った人びとは”24時間瞑想”を実践する。

 

すべてのものは「縁起(えんぎ)」するという考え方 (ここのところは読み飛ばしてもかまわないです。)

仏教の中で最も重要な考え方である「空(くう)」に至る為のものである。 「空(くう)」とは簡単に言えば”世界には現象はあるが実体はない”とする考えのことである。

以下は、「縁起(えんぎ)」に関する説明文です。[7, p19]

サンスクリット語で「縁起」にあたる言葉は pratiyasamutpada と言います。pratiya という言葉には3つの異なった意味−−−到達すること、頼ること、依ること−−−があります。この3つはすべて基本的には「依存すること」を意味しています。 samutpadaとは「起こること」を意味します。つまり、pratiyasamutpada は全体で、条件に依存して生じること、条件によって生じること、条件の力を通じて生じること、という意味になります。

そして、これを元とした「空(くう)」の説明が以下のものである。[7, p19]

「全ての物事が空である」というのは、仏教哲学の根本命題である。この「空」という重要な概念は、無自性すなわち「実体性(自性)が存在しないこと」とも言い換えられる

この根本命題を論証するための根拠が「縁起していること」である。すなわち「縁起しているものは、何であれ実体性をもたない」ということと、「すべての物事は縁起している」という2つの事実から、「すべての事物は実体性を持たない」という主張命題が帰結するのである。「縁起していること」が「空であること」の根拠になる、というこのことはまた、縁起していることと実体的に存在していることとが相容れないものであるということをも示している。

日本においては、「空(くう)」というととても情緒的なものが想像されるが、インド仏教における「空(くう)」は厳密な論理によって証明されているということがわかる。 当然、仏教においてはこれから更に掘り下げて証明が行われる。

ただし、初期の仏教はこのような説明方法は取っていなかったようである。

 

密教とはなにか (ここのところは読み飛ばしてもかまわないです。)

密教とは、簡単には以下のようなものである。 チベットには、10世紀半ばに伝わった。

行為の本性を明らかにすることによって、行為の結末から人を救い、「一つの生涯で」菩提(ぼだい)を得させる道。[6, p186]

みっ‐きょう【密教】
仏教の流派の一。深遠で、凡夫にうかがいえない秘密の教え。インドで大乗仏教の発展の極に現れ、中国・日本のほかネパール・チベットなどにも広まった。日本では、真言宗系の東密と天台宗系の台密とがある。秘密教。秘密仏教。 <-> 顕教ケンギョウ。[4]

密教
仏教の流れの一つで,自己を非公開的な教団の内に閉鎖し,秘密の教義と儀礼を師資相承によって伝持しようとする秘密仏教をいい,象徴主義的儀礼ないし観修法によって宗教理想を達成しようとする点に特徴をもつ。[5]

密教教義の特色
密教の最大の特色は、「生身のままで仏になる」という「即身成仏」をめざす点にある。密教においては一般の宗教とことなって、凡夫のもつ煩悩や愛欲が否定されることはなく、むしろそれらを普遍的慈悲にまで高めることが目標とされる。 [3]

 

 

チベット王朝の歴史

10世紀〜

10世紀半ばになると、インドから新しい密教が導入されると、仏教復興の動きが起こった。 1042年にはインドからアーティーシャがやってきた。 アーティーシャは「純粋で規律正しい生活を送りなさい」と説き、カダムバ派と呼ばれた。 この派は今では存在しないが、その思想の多くはゲルク派に受け継がれた。 一方、往来の教えを守りつづけている僧侶たちは、ニンマ派(旧守派)と呼ばれた。

アティーシャの弟子の中に、カギュー派を創設したマルバと、人びとから愛されている聖人、ミラレーパがいる。 ミラレーパの造った歌や詩は、今日でも遊牧民や農民に愛唱されている。 アティーシャの弟子であるコンチョク・キャルポはサキャ派を創設した。

 

ティローパとナーローパ、ミラレーパの伝承

カギュー派を創設したのはマルバであるが、伝承上では、その霊的始祖とも言われているのは、ティローパと呼ばれるベンガル人のようだ。

ティローパは、自分の教えをカシュミール人の学者、ナーロータに伝授した。ナーロータのチベット人の弟子であるラマ・マルパが、これをチベットに持ち込んだ。このマルパの高弟で、有名な隠者にして詩人のミラレパは、弟子のタクポハジェにこれを伝授、これが、今もカギュ派の名の下に伝授され続けている。[6, p185]

このティローパとナーローパ、ミラレーパには面白い伝承がいくつもあるようだ。

ティローパは、タントラ派に所属し、「何ものも好まず、何ものも嫌わず、何ものも恥じず、何ものも崇拝せず、あらゆるものから離脱し、あらゆる家族、社会、宗教の絆を断っている」といわれるアヴァドゥタの一人。 アヴァドゥタとは、善悪の区別がもはや存在しない悟りの境地に至ったことを信じ、世界から完全に自分を断ち切った行者のこと。[6, p187]

このような姿を、簡単に想像できるだろうか。 彼らは、何ものにも囚われない。それが故に、弟子にも過酷な所業を行わせる。 一方、ナーローパは以下のような人だった。

一方、ナーローパは知的に洗練された人で、バラモンの家柄を誇る有能な学者であった。2人の出会いは、冗談にしかみえない一連の出来事を招来することになるが、ナーローパにとって、それは胸が張り裂けるような体験だった。[6, p187]

ティローパとナーローパとの出会いは、まず、ナーローパのティローパへの追いかけっこから始まる。その後も、酷く冷たい態度を取られるが、着々と悟りへは近づいていった。

面白い話としては、次のような話だ。 とある日、町に出かけたら、そこで結婚式が執り行われていた。そこで、ティローパはナーローパに、あの娘を連れて来いと命令する。 だが、ティローパはその行方を見ることもなく、帰ってしまう。 始め、祝福してくれるかと思った新婚夫婦は喜ぶが、娘を連れて行こうとするなり、周囲の者はびっくりし、ナーローパは周囲の者達に叩きのめされてしまう。 ティローパはナーローパに、”弟子になって後悔していないか?”と聞くが、ナーローパは”偉大な師匠にお仕えできて幸せです”と答えたと言う。

似たような話で、”汚れた川の水を、私が飲めと言ったならば誰が飲むだろうか”と言った時、率先してナーローパはその水を飲んだ。 汚れた水とは、バラモンの階級そのものが穢れることをも意味する。

このような体験を詰み、ナーローパは悟りを切り開いた。 それ以来、ナーローパは自分が遭遇したような苦しい試練に合わせない、最も優しい師匠になったという。

一方、ナーローパの弟子であり、チベットに教えを持ち込んだマルパは、まさにティローパのような人だった。 彼は弟子であるミラレーパに、手助けなしで家を建てるよう伝えておきながら、完成に近づくと、それを即刻取り壊すよう命令したりした。 ミラレーパが建てた家は、20世紀前半においては、南チベットのロブラグに存在していたようだ。(今は不明)

 

チンギス・ハンの脅威と独特の関係

13世紀始め、チンギス・ハンの脅威がチベットに迫っていた。 モンゴル人の通った後は人影も見えないとの噂で、急遽、チベットの諸侯とラマはラサで緊急会議を開くことになった。 その結果、モンゴル帝国に朝貢し、攻撃しないように願いいれることとなった。 これを受け入れたチンギス・ハンは彼の代ではチベットに攻め入ることはなかった。

だが、チンギス・ハンが死ぬと朝貢を止めてしまい、これに怒ったチンギス・ハンの孫のゴーダン王子は、チベットに3万の兵を差し向けた。 その結果、ラサは陥落した。 だが、単なる武人ではなく、仏教に多大なる関心を持っていたゴーダン王子は、最も徳が高いと伝え聞いたラマ、サキャ寺院の高僧、サキャ・ラマを帝師として求めた。

この結果、サキャ・ラマが示した学識と教えはゴーダン皇子に深い感銘を与えた。 このことが、チベットのラマとモンゴル帝国との独特の関係のはじまりとなった。 それは、”全く違うが対等”である2つの国家の取り決めだった。 チベット人は宗教面でモンゴル人を導き、モンゴル人は”力”でもってチベット人を保護する、というものである。 後に、これと同じような関係が、チベット人と清朝帝国との間にも成立することとなる。

こうして、サキャ派のラマはモンゴルの支持を得て、13−14世紀にチベットを支配した。 だが、モンゴル帝国の衰退と共に、その力を失って行くこととなる。

 

カギュ派、そしてカルマ派の台頭

この後の時代、サキャ派に変わり、カギュ派が勢力を伸ばしてくる。このカギュ派の8つの分派のうちの1つであるカルマ派がこれに取って代わった。 これは、以下に見る”活仏制度”がその特徴となる。[3]

カルマ派の座主の選考に活仏制度が導入された。この制度は、座主がなくなっても新しい肉体をえて次の座主として転生するという思想にもとづいている。カルマパ(派)は黒帽派紅帽派にわかれたが、2000年1月はじめ、中国からインドにきたカルマパ17世は黒帽派の活仏である。カルマ派の勢力は17世紀中葉まで維持された。

カルマ派は、やがてダライ・ラマの学派であるゲルク派に政権をゆずるのであるが、カルマ派の勢力は今日にいたるまでゲルク派につぐ力を有している。とくにシッキム地方、カトマンズ盆地などではこの派の活動が盛んであり、密教的ヨーガやマンダラ瞑想(めいそう)の修行者が多い。

ここにある”活仏制度”は、ダライ・ラマの学派であるゲルク派にも受け継がれるのであるが、この制度に関してはいろいろと話題が尽きない。

まず、権威保持のための機構と見る動きがまずある。 続いて、そのようなことが本当に可能なのか? という点である。 密教行者のレポートによると、確かに生まれかわりで前世の記憶を保っている、という事例もあるようである。 だが、一般的には、まず次の事が抑えられなければならないと思う。[6, p127/p39]

学識あるラマについていえば、彼らは、他の仏教徒と同じく、釈迦は二度と生まれ変わることはないと明言している。釈迦はニルヴァーナ(涅槃:ねはん)の境地に至ったからである。ニルヴァーナとは、出生と死の輪から解放されることであり、転生の可能性はここにはまったくない。過去にも、現在にも、歴史上の釈迦の権化などというものはないのだ。  そもそも、涅槃に入った人のことを「仏陀」と呼ぶのである。

仏教は輪廻する霊魂の存在を否定し、永続する「我(エゴ)」の信仰をもっとも有害な誤謬であるとみなしているのだが、学識なき仏教徒の大半は、「人が衣服を着替えるように古い体を新しい体に着替える」というインドの古いジーヴァ(我)説に陥っている。

仏教徒はある生物が死によって分解すれば、その精神的、物理的活動の作り出すエネルギーが、新たな精神的、物理的現象の幻影を作り出すと教えている。

ニルヴァーナに至っていない人の輪廻は考えられる。 それに関して、様々なレポートもあるようだがここでは割愛する。

又、黒帽派紅帽派、それに黄帽派といった区分は、何も対立を示すものではない。以下のようなレポートがなされている。

外国の作家は、よく、黄帽派と紅帽派を対立しあうセクトのように書いているが、エンツェ寺でゲルグ派大僧正が紅帽派僧侶たちを従えて共に読教しているのをみれば、その誤りがわかるだろう。[6, p36]

 

ゲルク派の支配

14世紀末、ダライ・ラマを生んだゲルク派が誕生することとなる。[3]

14世紀末、チンハイ(青海)省アムドに生まれたツォンカパ(1357〜1419)がゲルク派(黄帽派)を開き、チベット仏教の改革をおこなった。彼はきびしい戒律をまもり、性的ヨーガを排除した精神的密教修行を提唱した。ゲルク派の本山としてガンデン寺がたてられた。

 

初代ダライ・ラマ法王

以下は、初代ダライ・ラマ法王誕生における伝承である。[1, p86]

ツォン・カパの弟子に、ゲドゥン・ドゥプという偉大な学者がいた。ゲドゥン・ドゥプは深い学識と純粋さで、ゲルク派の教えをチベット中に広めた。また、タシリンポに大寺院を建て、3千人以上の僧侶を住まわせた(タシリンポとは「祝福された山」という意味)。これが後のパンチェン・ラマ寺院である。

ゲドゥン・ドゥプは1474年に84歳で没したが、死の床で、目を泣き腫らした弟子たちに向かって「すぐにでも新しい体に生まれ変わって努めを果たしたい」と訴えた。1年後、ゲドゥン・ギャンツォが生まれた。この男の子は幼少のころから、すばらしい才能を発揮し、間もなくゲドゥン・ドゥプの転生者と認められた。この2人は後に、それぞれダライ・ラマ1世、2世と呼ばれる。

これが、ダライ・ラマの転生にまつわる伝承である。

一般にはダライ・ラマはニルヴァーナの境地に達していると伝えられているが、上にも書いたように、ニルヴァーナの境地に達した人は輪廻の可能性はない。 ここでは、”ニルヴァーナにより近い人”と解釈するのが良いだろう。 密教教義によれば、本当に例外的に涅槃から地上界に降りて来る人もいるようだが、その場合でも、涅槃に達したことによって得られた英知の多くを捨てなくてはならないようだ。 正確に言えば、地上の体ではその”精妙な質を保てない”、ということのようだ。

以下は、ダライ・ラマの称号にまつわる話である。

ダライ・ラマ Dalai blama
 チベット仏教(ラマ教)の最高者の称号。ダライはモンゴル語で「大海」、ラマはチベット語で「師匠」「上人」「僧」を意味する。第3世のソーナム・ギャツォ(在位1543〜88年)がモンゴルへ旅したとき、アルタン・ハーンがその徳をたたえてはじめてこの称号でよんだものといわれ、第5世のロサン・ギャツォ(在位1617〜82年)が国王もかねるようになって以来、一般にこの称でよばれるようになったという。[3]

時は17世紀、ロザン・ギャンツォはチベット国民に「偉大なる5世」と呼ばれるようになる。5世の下でこの国は、再度、チベット帝国以来の統一を成し遂げた。 強力な中央集権政府を構築し、僧侶や貴族を平等に登用した。 この制度はほとんど変わることなく20世紀半ばまで受け継がれることとなる。

また、ダライ・ラマ5世はそれまで住んでいたデプン寺院からラサに移り、あの壮大な、ポタラ宮の建設に着手した。建築には50年を要し、5世の死後もそれは続けられた。 ポタラ宮の立つラサの「赤い丘」は、千年前に偉大なチベット王、ソンツェン・ガンポが砦を築いた場所でもある。 このポタラ宮には、いまでもチベット中から何千人もの巡礼がやってくる。

ダライ・ラマ5世にまつわるもので、以下のような伝承がある。[1, p98]

ある日、ダライ・ラマ5世はブッダの世界のこのうえなく美しい世界を夢に見た。この夢がきっかけとなってはじめられたのが、光の祭りである。1月15日にはバターで作った美しく輝く彫像が通りに飾られ、誰もが浮かれた気分になる。この祭りは今でも残っている。(※) ラサでの新年の祝典を盛大に行い、新年4日からのランラム・チェモ(大祈祷際)をはじめたのもダライ・ラマ5世である。

※ 引用者注: 今では、亡命政府があるインドのダラムサラにおいても盛大に行われているようです。

平成15年8月31日 23時0分 記
平成15年9月4日 16時0分 追記
平成15年9月7日 20時0分 追記
平成15年9月20日 15時20分 追記

■リンク■
1 チベット難民に発砲する中国国境警備兵

■参考■
1 チベット史ものがたり(クリストファー・ギブ 著)日中出版
2 チベットの文化 決定版 (R.A.スタン 著) 岩波書店
3 エンカルタ総合大百科2003(マイクロソフト)
4 広辞苑第5版
5 世界大百科辞典 (平凡社)
6 チベット魔法の書 (アレクサンドラ・デビットニール 著) 徳間書店
7 ダライ・ラマの仏教入門 (ダライ・ラマ14世、テンジン・ギャムツォ 著)光文社
8 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 (HP)
9 オカメインコの森 (HP)
10 自由チベット (チベット独立支援委員会 著)
11 失われた魂・チベット (遠藤正雄 著) 時事通信社
12 赤いチベット (ロバート・フォード 著) 新潮社

 

 

ニュース メモ

 

中国四川省でチベット族住民1000人と警官隊が衝突
2007年8月4日(土)18:55

 【香港=吉田健一】4日付の香港紙・明報などが報じたところによると、中国四川省の甘孜チベット族自治州理塘県で1日、警官によるチベット族住民の連行に反発した住民約1000人と警官隊が衝突、住民2人が負傷し、30人が身柄を拘束された。

 拘束者は200人に上るとの情報もある。衝突時、警官隊は威嚇発砲したという。

 同紙などによると、同県でチベット族の祭りが催された際、男性住民(53)がチベット族の団結やチベット独立、死刑判決を受けたチベット仏教高僧の釈放などを訴える演説を行った。警官がこの男性を連行しようとしたため、住民との衝突に発展したという。衝突後、住民約200人が留置施設に押しかけ、男性の釈放を求める騒ぎも起きた。

( YOMIURI ONLINE )

 

 

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