岡倉天心は1902年頃、インド、ガンジス川の下流にあるベンガル(今のバングラデシュ)に滞在します。この時代と言えば、明治維新を得て、大陸からはロシア、海からはイギリス・フランス・オランダ・アメリカと、植民地獲得の猛威が迫ってきており、その嵐のただ中、日本はいかにして独立を維持するか、が最大のテーマである時代でした。 この猛威を抜きにしては、この時代を見誤ることとなります。
東洋の覚醒
アジアの兄弟姉妹たちよ!
おびただしい苦痛が、われわれの父祖の地を蔽っている。東洋は柔弱の同義語となった。土着の民とは奴隷の仇名である。われわれの温順にたいする讚辞は反語であって、西洋人からすればその(東洋人の(※))礼儀正しさは臆病のせいなのだ。商業の名においてわれわれは好戦の徒を歓迎している。文明の名において帝国主義者を抱擁している。キリスト教の名において無慈悲のまえにひれ伏している。国際法の光は白い羊皮紙のうえに輝いている。だが、あますところは不正の翳(かげ)が有色の皮膚に暗く落ちている。
(※: 引用者注)
東洋の思想 他 岡倉 天心 著 (平凡社) より |
当時、アジアの各国は次々に植民地化されました。 唯一、植民地を逃れたのは日本とタイのみです。 日本もタイも、積極的に欧米を学び、彼らの植民地となることを防ぎました。 このメッセージは、無残にも植民地となったアジアの同朋に対して呼びかけた、切実なる訴えだったと言えるでしょう。
以下のものは、天心の有名な言葉です。
理想の領域
アジアは1つである。2つの強力な文明、孔子の共同主義(コミュニズム)をもつ中国人と、ヴェーダの個人主義をもつインド人とを、ヒマラヤ山脈がわけ隔てているというのも、両者それぞれの特色を強調しようがためにすぎない。
雪を頂く障壁といえども、すべてのアジア民族にとっての共通の資産遺産ともいうべき窮極的なもの、普遍的なものに対する広やかな愛情を、一瞬たりとも妨げることは出来ない。
こうした愛情こそ、アジア民族をして世界の偉大な宗教の一切を生み出さしめたものであり、地中海とバルト海の海洋的民族が、ひたすら個別的なものに執着して、人生の目的ならぬ手段の探求にいそしむのとは、はっきり異なっている。
東洋の思想 他 岡倉 天心 著 (平凡社) より |
孔子の共同主義とは、いわゆる”人間関係を大切にする”生き方を指し、ヴェーダの個人主義とは、一切の社会の絆を断ち切ることにより悟りを切り開く世界です。確かにこのように大きな違いこそあるが、それでもアジアには共通の普遍的な愛、宗教の根幹は繋がっている、と伝えています。
又、西洋文明が”目的ではなく手段にいそしむ”と言っています。
”アジアは1つである”という言葉は、確かに、どの国もそれぞれ個性的であるこのアジアにおいて、その言葉の乱暴さが目に付きます。 が、天心は様々な国を訪問していますからアジアがとても個性的だということはわかっていた筈ですし、個性的な性格とその荒々しさを考えると、アジア民族に共通の普遍的愛を訴えようとせんが為にこのように言ったものと思われます。
そして、見失われてはならないのが、この当時の世界情勢です。 西洋各国の猛威に対し、アジア各国が1つとなって立ち向かわなければならない、という熱意が感じられます。 この点を抜きにしては、単なる”日本の侵略(ファシスト)思想”であると受け止められてしまいます。 当時の人々が感じていた、”西洋に対する威圧感”
を抜きにしてはいけません。 当時の日本の人々は、これらの列強各国と渡り合う為、尽力を尽くしました。 天心も、その1人であったと言えましょう。
天心の言葉は、表現において微妙であり、いささか難解な面もありますが、この書籍が、日本人が英文で書いたものだという前提に立つと、そのような表現も致し方ないと思えてきます。
東洋の覚醒
アジアの兄弟姉妹たちよ!
われわれはながく理想の間をさまよってきた、もう一度現実に目覚めようではないか。無感動の河を渡ってきた、もう一度現実の過酷な岸辺に立とうではないか。われわれは、水晶のような透明な抑制を誇りとして、たがいに孤立してきた。いまや共通の悲惨の大洋の中で溶け合おうではないか。西洋のやましい良心は、しばしば黄渦の幻影を呼び招いた。それならば東洋の静かな凝視を白渦に向けようではないか。私は諸君に暴力をではなく、男らしさを呼びかけているのだ。攻撃をではなく、自覚を呼びかけているのである。
東洋の思想 他 岡倉 天心 著 (平凡社) より |
”現実に目覚めよう” ”もう一度現実の過酷な岸辺に立とう” と、強く訴えています。 これは、今の日本にも同様に必要となってしまった言葉です。 幻想の世界からの脱却と、日本・そしては世界へと目を向ける必要性。 現実から目覚めること、つまり”自覚”を呼びかけているのである。
天心は、更に、次のようなことも言っています。 当時のアジアの現状を眺めてのことでしょう。 今、物質こそ裕福になったこの日本においても、同じような、心の痩せ細った姿がそこかしこに蔓延しているのではないでしょうか。 今、100年余り経った今、このメッセージは日本そのものに向けられているのではないかと錯覚します。
飢えで痩せ細った姿が炉辺にすわっている。だが、天は、むかしわれわれが浴した恵みの雨を降らさない。男たちは無言の恥辱の中で顔を見交わすだけで、恥辱を認める勇気がない。女たちは今日、英雄を生むために生まれついていない。ボスポラス海峡の水は白河の悲しい憂鬱を映している。(中略)
花は散って二度と帰らないのか。春は永遠に過ぎ去ったのか。
東洋の思想 他 岡倉 天心 著 (平凡社) より
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天心は、既に植民地化された土地を見て、今の日本と同じような風景を見たのです。 状況こそ違えども、”うつろな男達”、”女たちは英雄を産むために生まれついていない”などの悲しい惨状はまさに日本の現代の姿そのものです。 この文章はアジアの各国に向けて発信されたものですが、天心は100年後の日本がまさかこうなっていようとは、どれほど思っていたでしょうか。
ここでいう”英雄”という言葉が、今の日本においては、特に左翼論者の手によって”英雄になることはエゴイスティックなものだ”と表現されているように思えます。 その声があまりに大きいが為に、この天心の言葉は誤解されやすい。 天心の言葉を正確に受け取るためにポイントとなるのは、”私心があるかどうか” という点であり、私心がない英雄を育てることを天心は訴えていたのだと思われます。 私心がある英雄は英雄の地位を維持することは不可能でしょう。
”日本への回帰(第38集) (国民文化研究会)”によりますと、天心がインドに滞在していた時、更に次のように伝えたといいます。
その時天心は青年たちに「あなたがたは、東洋の真価にふさはしい人間の精神に雄大な表現を与へることを生涯の使命とするやうに」と要求し、さらに、次のように語ったといふのです。
「すべての民族は、その民族自身を世界に現はす義務を持ってゐます。何も現はさないといふことは民族的な罪悪と言ってもよく、死よりも悪いことであって、人類の歴史において許されないことです。民族は彼らの中にある最上のものを提出しなければなりません。」
日本への回帰(第38集) (国民文化研究会) より |
”日本においては謙虚さが美徳とされてきた”と私自身思ってきましたし、過去もこれからもそうだと思います。 ここで天心が言っているのは、そういった態度(体)の謙虚さを”前提”とした、雄大な表現のことだと思われます。 この”前提”を抜きにすると、エゴイスティックな表現であると勘違いしかねません。
日本が自信をもって世界に貢献できるのは、ここで天心の言う、”民族自身を世界に現す義務”を果たした時に実現可能なものではないでしょうか。
このことが、今、日本に求められているのではないでしょうか。
そして、それらをかなりのところまで捨ててきてしまった日本人が、再度、戦前に立ち返って”日本人の系統”を呼び覚ます必要性に迫られているのではないでしょうか。
以下に、岡倉天心の人物データを記します。
岡倉天心 おかくらてんしん 1863〜1913
明治期の美術指導者・思想家。名は覚三で天心は号。横浜に生まれる。東京大学文学部在学中にアメリカ人教師のフェノロサに出会い、1880年(明治13)の卒業後、文部省に勤務して古美術保存行政にたずさわる。いっぽう84年にはフェノロサらと鑑画会を創設し、新しい日本画の創造をとなえ、89年には美術誌「国華」を創刊。また東京美術学校(現・東京芸術大学)創立の準備をすすめ、開校後の90年に校長に就任、美術史を講義するとともに創作美術の指導者として横山大観・下村観山らをそだてる。美術界での精力的な活動が一部の反感をまねいて排斥騒動にあい98年辞職。同年、橋本雅邦らと日本美術院をおこして美術運動の拠点とした。
以後、数度の海外渡航ののち、1904年からボストン美術館に勤務して日米間を往復した。仕事も著述活動に比重がうつり、アメリカで英文での著作「日本の覚醒」(1904)、「茶の本」(1906)を出版し、日本文化の独自性を紹介して反響をよんだ。日本で翻訳出版されたのは天心の没後だったが、これによって美術指導者にとどまらない思想家としても評価された。
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岡倉天心の蔵書は<岡倉天心全集>全9巻にまとめられている。 過去においては上に引用した言葉もかなり有名だったようだが、私はほとんど見る機会もなかった。 ここに表現したのも、上の言葉を読んでもらいたい、というただそれだけの気持ちからである。
今回、このような偉大な思想家が明治時代にいたことを知って、とても感慨深いものがある。 美術の歴史と日本の歴史と。 明治においては、多くの人が尊厳を持って生きていたということの証であるようにも思える。
そして重要なことは、明治においては、 ”一心同体” が貫かれていたということ。 ”公” の精神が表現されていた明治においては、その ”姿” でもって公の精神を表現していた筈であります。 言葉の上では西洋を批判していますが、天心の心は西洋も東洋も、どちらも愛情を持って見守っていたことでしょう。 そのような前提に立っているからこそ、この言葉には価値があるものと思えるのです。
平成15年8月1日 12時10分