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Eternity - 旅行記

沖縄・渡嘉敷島の集団自決

 


はじめに

事件は神話となり、日本軍の命令によって集団自決させられた住民と極悪非道な日本軍という構図で語られることが常となった。 だが、戦争の悲惨さは変わらないものの、その真実はまったく違ったものであった。

 私は隊長のお嬢さんが気の毒です。うちのお父さんはそんなひどいことをしたのだろうか、と言われましてね。一時は大分、悩まれたようです。 我々が行って、いろいろ話をするうちに、少しわかって来られたようですが。[1, p37]

 こんな軍律厳しかった隊もないと思う。赤松隊長を信じていればこそ、戦後二十何年経っても、隊長が集まれと言えば皆こうして命令一下やって来る。それを、あらゆる卑怯者の代名詞のようにさせられて、自分には全く納得がいかない。[1,p33]

 赤松隊長のことを、何故ああ、ジャーナリズムはまちがって書き、人々はそれをそのまま信じるのか。[1,p33]

神話は作られ、そして、真実は目隠しされる。


作られた神話

沖縄の慶良間諸島・渡嘉敷島で起きた事件、旧日本軍が住民に自決命令を出してそれに住民が従い、手榴弾で集団自決したとされる事件ーーー。 日本軍、それも、隊長である赤松隊長は悪の権化として神話となっている。 しかし、証言をインタビューした記者は数えるほどで、数多くの沖縄戦に関する著書の数よりずっと少ない。 昭和45年の時点で約3名という少なさである。

以下は、この赤松隊長本人による証言である。

 手榴弾は配ってはおりません。只、防衛召集兵には、これは正規軍ですから1人1、2発づつ渡しておりました。艦砲でやられて混乱に陥った時、彼らが勝手にそれを家族に渡したのです。今にして思えば、きちんとした訓練のゆきとどいていない防衛召集兵たちに、手榴弾を渡したのがまちがいだったと思います。[1,p130]

以下は、「皆さんは集団自決を見たのでしょう」という質問に対する赤松隊長の答えである。

 「薄団がずぶ濡れになって、女の子の髪が泥の中にめり込んでいたのはみたのです。(中略)しかしどう思い返してみても、私が亡くなった方をみたのは、ほんの数人なんです。『鉄の暴風』に書かれているように三百二十九人もの屍がるいるいとしているという状況は見たことがないんです」(中略)[1,p131]

更に、連下元少尉の回答。

 「私は一人見ました。一週間後に谷川の傍にいたんです。死体かと思ったら、生きていました。『兵隊さん』って、声をかけられました。こめかみのところに血痕が付着していましたが、一人でした」
 他に誰も、おびただしい死者を見た人はいなかった。[1,p131]


気が狂う夜

その夜は、まさに満月だった。 今のように電灯もない中、村人は、狂気に導かれていった。 以下は、当時、自決が行われた西山に向かって歩いた4名の女性の証言である。

A「あの時のみじめさったら、なかったです」
B「人より先に、楽に死んだほうがいいんじゃないねえ、と言ったですよ」
D「そのときに、多くの人が気狂いになったですね。おばあさんたちなんかは、うちのお母さんなんかも、気狂いのようにしてた」
A「みんなばかになって、全然、親も子もわからないぐらいになってたんです」
B「夢か何かわからんですね」[1,p143-152](適宜省略)

戦争、そして迫撃砲が落ちる中、人々は気が狂うようになっていった。 このような中で拳銃あるいは手榴弾を持っていたならば、それを使ってしまったとしても責められるものではないだろう。

B「夜が明くとき、ずっと山の上から、声が聞こえたけど、兵隊さんが言っているのか、自分が本当に聞いているのか、わからないわけですよね」
D「着いたのはね、私たちの着いたのは、夢のようで、誰にもわからない」
B「わからんね、ただ夢中だから」
C「ただ山を右往左往……」[1,p143-152](適宜省略)

そして、西山の自決の場所に集まるように言われたという。

曽野「自然、みんなそこに集まったわけですか」
D「自然に集って玉砕場に着いたから、みんな、明るいような感じでした」
曽野「それからどうなりました」
B「玉砕ですよ」(笑)
曽野「そこで誰かが《死ね》と言ったんですか」
A「わかりませんね」
B「自分たちは早く、もう、敵につかまるよりか死のう、死のうで、早く死んだ方がいいと思ってますよ」
A「軍から命令しないうちに、家族、家族のただ話し合い」
B「海行かば、うたい出して」
C「芝居みるように人を殺したですね、天皇陛下万歳も」
D「してみれば、これはみな不発になって来たから、もう、あっちこっちして《もう、私たちは何で死なないのかねえ》」
A「そのときからさ、もう斬り込みに立ったのは」
C「《敵に突っ込め》したから、子供はおんぶして走ってる」[1,p143-152](適宜省略)

このように、誰から命令されたわけでもなく、皆、気が狂ううちに自殺を遂げていった。

B「本部のところに、突っ込みにいったから《何であんた方、早まったことしたなあ》」
C「《誰が命令したねえ》」
D「《何でこんな早まったことするね、皆、避難しなさい》と言った。だからうちの兄は、すぐきたからに又《皆、今、あまり早まったことだそうよ》と言って、それからまた、私たち反対方向に行って、また向こうから引率された。」
A「あの晩には、ひとがどんどん死によったですよ」
玉井「あのね、これも疑問だがね、皆騒いだからね、そこに撃ち込んだのはアメリカであるのか、アメリカの迫撃砲で撃ち込んだのか、日本軍があまり騒ぐので友軍が…」
玉井「こっちは迫撃砲を持っておったかどうかもわからないけれども」(注・この時、日本軍は迫撃砲を持っていなかった。)[1,p143-152](適宜省略)

これは、混乱と重圧の中に起きた悲劇であった。


後の証言

以下は、隊の一人の証言である。

「皆、あの頃、集団自決なんて知ってたんでしょうか。僕はそういう意識、全くありませんでした。勿論、村の方で犠牲になった方があるのは知ってましたが、集団という感じでは僕自身みていなかったし、戦後、週刊誌が始めて書いた時、へえ、そんなことあったのかな、と思いました。しかし、実感なかったですね。 僕ら下っ端は村の人に親しみを持っていたから、玉砕命令がでたなんでことわかったら、その点についてたちどころに上層部に反感を持つという形で記憶に残ったと思います」[1,171]

実際、村人達は、手榴弾の使い方もわからずに不発弾だと決め込み、多くの人は手榴弾で死ぬことがなかった。 しかし、狂気の元、様々な自殺が図られたことは確かだ。

以下は、村に帰ってきた兵士が体験したことである。

「帰ってきてみると、家族がほとんど自決して死んでいたというような人もいるわけですよ。」
(中略)
『村民の間に、一種の陶酔が充満していた。肉親も殺し、自分も死ぬという異常な雰囲気があった』と言われたそうですが、死んだもののの家族にとっては、陶酔で死んだと言われても、とうてい納得できない。そこで、どう説明したらいいかということになると、命令だった、ということが、一番はっきりわかってもらいやすい。その気持ちはわかるような気がしますね。[1,p168]

以下は、元隊員の証言である。

「始めにボクも、世間があんまりいろいろ言うから、隊長、ほんとのとこは何かやっとったんじゃないかな、と思う時もあったですよ。ボクは阿波連という遠くの部隊にいましたからね。しかしああいう騒ぎの中で、命令の伝達なんていうものは、正確に伝わる筈はないでしょうね。人間は今みたいな静かな状態で命令を出したとか、それが伝わらなかったとか想像するんです。しかしあの時は、敵に上陸されて、あらゆるものがひどい混乱の中にあった。我々は陵線上にやっとタコ壺らしきものを掘って中で一糎でも体を低くしようとしているだけです。整然と人間を集めて、ちゃんと自決命令を出すなんてことは、できなかったしする気にもならなかったんじゃないかな」[1,p37]

このように、事件は混乱の最中に起こったことであり、「命令は出されなかった」と考えるのが最もであるように思える。 しかし、何故、「自決命令」のような俗説が出てきたのであろうか?


遺族に年金を渡すために、赤松隊はあえて悪者になった

これは一説であるが、最も有力な説であるように思える。

 もし恐怖に駆られて死んだのだ、捕虜になることを恐れて、自ら死を選んだのだ、と言えば、それを戦死とは言えません、と役所は出てくるだろう。しかし、(中略)年金は必要に決まっている。
 「玉砕命令による集団自決」という表現は、確かに、一つの明確なものを持っている。「玉砕命令による」という言葉の部分は正確かどうかは別としても、「集団自決」が行われたのは事実であり、それは戦争なしに惹気されたものではなかったのである。
 そのような空気を考えると、昭和三十二、三年まで、渡嘉敷をめぐる周囲の空気が「軍命令による玉砕」を主張することは、年金を得るために必要であり、自然であり、賢明であったと言える。[1,170]

以下は、赤松隊の隊員の発言である。

「軍が命令を下していないということを隊員があらゆる角度から証言したとなると、遺族の受けられる年金がさしとめられるようなことになるといけない、と思ったからです。我々が口をつぐんでいた理由は一つそれだけです。」[1,170]

「我々が悪者になっていれば済むのなら、それでいいという気持ちは皆にあったんじゃないですか。遺族の方たちの気持ちを傷つけたくないという感じは誰もが持っているし。ただ、こちらが、何も知らないで玉砕命令を出したということが、定説になると困りますがね」[1,p171]

このように、赤松隊の人々は恥辱にも耐え、島の人々の将来を案じている。


まとめ

 赤松隊は悲劇の夜を共にした。住民は気が狂い、集団自殺を遂げるにまで至った。 そして戦後、そのことを一部ジャーナリストが取り上げ、改ざんし、歴史をでっち上げた。 戦後大流行となった「日本=悪、アメリカ=善」の構図に従い、赤松隊はしてもいない「自決命令」を下したことになっていた。
 しかし、赤松隊の人々は、あえて反論しようとしなかった。 戦争によって村人が大勢死んだことは確かであるし、自分達が悪者になりさえすれば村人が年金を受けられる。 結果、汚名を受けたまま、赤松隊は恥に耐え、生き続けている。
 戦後60年経ち、悲劇を覚めた目で見られるようになる時代が到来しつつある。 人が死んだことは確かに悲劇であるし、愛する人を失った人の悲しみは語り尽くすことができない。 しかし、一方で、赤松隊が行っていない命令が「した」ことになっている事実は、それはそれとしてあるのだ。
 悲しみは悲しみとして捉え、また、事実は事実として捉え、そして、現状を最善の方向へともってゆくこと。 戦後60年経ってようやく、その時代に到達した今、赤松隊の汚名を削ぐことができればと思う。

平成18年6月4日 記

■追記 (平成18年8月28日)

産経新聞に以下の記事が載りました。引用させて頂きます。

 

≪元琉球政府の照屋昇雄さん≫

 第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。
(中略)
 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。

(産経新聞 2006年8月27日)

■追記 (平成20年2月23日)

産経新聞より追加情報です。

 

村長が住民に解散を
指示した忠魂碑の前で
証言する宮平秀幸さん 
=沖縄県座間味村
(石川水穂撮影)
(産経新聞より)
集団自決、隊長はいさめた

沖縄・座間味で日本軍強制説否定する新証言

 証言したのは、座間味村で民宿などを経営する宮平秀幸さん(78)。沖縄戦(昭和20年3〜6月)の当初、15歳の防衛隊員として、同島に駐屯した海上挺進隊第1戦隊長、梅沢裕少佐の伝令役を務めていた。

 宮平さんによると、同島に米軍が上陸する前日の昭和20年3月25日午後10時ごろ、野村正次郎村長、宮里盛秀助役ら村三役と国民学校長、役場職員、女子青年団の宮城初江さんが、梅沢少佐のいる本部壕を訪ねた。

 そこで、宮里助役らは「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英にけだもののように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」「すでに、住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」などと梅沢少佐に頼み、自決用の弾薬や手榴(しゅりゅう)弾、毒薬などの提供を求めた。

 これに対し、梅沢少佐は「そんなものは渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させ、避難させよ」と命じた。

 村側はなお懇願し、30分くらい押し問答が続いたが、梅沢少佐が「おれの言うことが聞けないのか」と弾薬類の提供を強く拒否したため、村の幹部らはあきらめ、忠魂碑前に向かった。

 同日午後11時ごろ、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、野村村長は「部隊長(梅沢少佐)に自決用の弾薬類をもらいにいったが、もらえなかった。みなさん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と話した。このため、住民たちはそれぞれの家族の壕に引き返したという。

 宮平さんは「私は、本部壕での村側と梅沢隊長のやりとりと、忠魂碑前での野村村長の指示をすぐ近くで聞いていた」と話す。

 その後、村長ら村三役や国民学校長らとその家族はそれぞれの壕で集団自決したが、宮平さんら多くの住民は自決を思いとどまり、翌26日に上陸してきた米軍に捕らえられるなどした。宮平さんは米軍の迫撃砲で左足を負傷し、自分の家族の壕に戻ったところを米軍に見つかったという。

 宮平さんはまた、梅沢少佐の元部下から生前に送られた手記を保存している。そこにも、村三役と国民学校長らが自決用の劇薬、手榴弾、ダイナマイトなどをもらいにきたが、与えるべき武器、弾薬類がなかったことが書かれている。

 宮平さんは戦後、これらの事実を話す機会がなかったが、「昨年、集団自決をめぐる教科書の記述が問題となり、真実を伝えておきたいと思った」と話している。

(産経新聞 2008年2月23日)

 

 


■参考■
1.ある神話の背景 ― 沖縄・渡嘉敷島の集団自決 (曽野綾子 著)文藝春秋
2.沖縄経験 - 大江健三郎 同時代論集 4 -(大江健三郎 著)岩波書店

 

 

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